●研究発表(1‐1)「ハリウッド映画におけるイエス像の変遷」

  • 木谷佳楠(同志社大学大学院神学研究科博士前期課程)/司会:塚田幸光(関西学院大学准教授)
  • 映画が誕生して約110年の間に、イエス・キリストは繰り返し主要なキャラクターとして取りあげられてきた。しかし、その「イエス像」はハリウッドを取り巻く社会状況や映画産業界の移り変わり、キリスト教におけるイエス理解のガイドラインである神学の変化などによってその姿を変えてきたのである。あるときにはイエスは中世の絵画のように理想化された姿で描かれ(〜1940年代、1960年代)、また、あるときには顔を映さない後ろ姿や音声のみによって表現された(1950年代)。1970年代から1990年代には、イエスの神性よりも人間的な葛藤や弱さを強調する作品が登場し、2000年代では米国における宗教右派の台頭と連動する形で、新しい保守主義神学を反映した映画作品が見られるようになる。本発表では、イエスが登場する映画の中から、代表的な作品として『キング・オブ・キングス』(1927、 1961)、『ベン・ハー』(1959)、 『偉大な生涯の物語』(1965)、『ジーザス・クライスト・スーパースター』(1973)、『最後の誘惑』(1988)、『パッション』(2004)などを取りあげ、ハリウッド映画におけるイエス像が、時代と共にどのように変遷してきたのかを、アメリカの社会状況や、センサーシップの問題、そして神学を軸に概括する。

●研究発表(1‐2)「日本映画産業における構造変化が製作部門に及ぼす影響 ― 東宝と松竹を事例として」

  • 眞田妙子(東京大学大学院新領域創成科学研究科修士課程)/司会:塚田幸光(関西学院大学准教授)
  • 近年、日本映画は世界的にそのオリジナリティやクリエイティビティが高く評価されている。しかし映画自体の価値を創造する製作部門が必ずしも興行の成果に応じたリターンを得られていないこと、そして寡占的である流通部門(配給・興行部門)がリスクの高い製作部門を切り離す(外部化する)ケースが増えてきており、製作資金の調達や製作スタッフの人材育成などの面から製作部門の活動が厳しいものになっていることが業界関係者から指摘されている。本発表では、このような指摘を踏まえた上で、日本映画における製作部門と配給・興行部門の関係の戦略的合理性を検討するために、収益配分と組織間関係に関する調査を行うことを目的とする。研究アプローチとしては、まず日本映画における製作・配給・興行部門の収益配分の実態を統計資料に基づき経年的に明らかにする。次に日本映画業界の配給・興行部門がいかに製作部門との組織間関係を構築してきたかを、企業経営における製作部門の垂直統合化と外部化という視点から分析する。具体的には、日本映画産業を牽引してきた東宝と松竹の企業経営を比較し、経営者の戦略的意思決定に着目した事例研究を行う。

●研究発表(2‐1)フランスの無声映画期における蓄音機と映画の諸関係について ― 『フォノ・シネ・ガゼット』誌を中心に

  • 大傍正規(京都大学大学院人間・環境学博士後期課程)/司会:小島康史(浜松大学准教授)
  • 1905年10月1日、それまで「蓄音機Le Phonographe ― 過去・現在・未来」といった特集記事や、映画草創期に世界の映画市場を牽引したパテ社の蓄音機事業に焦点をあてた記事などを掲載してきた蓄音機雑誌『フォノ・ガゼット』Phono-Gazetteは、映画会社としてのパテ社の成長に合わせるように、わずか6ヶ月でその役割を終え、「映画Cinema」をその名に加えた『フォノ・シネ・ガゼット』Phono-Cine-Gazette (1905‐1908)へと誌名を改めた。かくしてフランス初の映画雑誌『フォノ・シネ・ガゼット』は、蓄音機とそれに関わる音響の問題のみならず、映画とその視覚的主題に関する諸問題を扱う業界紙となった。本発表では、1906年5月13日(日)、同年5月27日(日)の計2回、同誌がパリのトロカデロにおいて主催した映画・蓄音機祭、すなわちパテ社の蓄音機と映写機を用いて観客が初見のフィルムを音響付きで提供したイベントのプログラムに着目し、同誌において展開された蓄音機と映写機の同期化の問題や、蓄音機の複数の応用可能性(言語教育、音声ニュース、書き取り用の機械等への応用)について検討することで、フランスの無声映画期において構想された映画の未来、蓄音機と映写機の融合という夢について多面的に考察したい。

●研究発表(2‐2)「リンゼイ・アンダーソンの抵抗と〈帝国〉の残照」

  • 佐藤元状(慶應義塾大学法学部専任講師)/司会:小島康史(浜松大学准教授)
  • 英国の映画監督リンゼイ・アンダーソン(Lindsay Anderson、1923-1991)は、フリー・シネマとニュー・ウェイヴという2つの芸術運動を通じて、1950年代から1960年代のイギリス映画界に新風を吹き込んだが、彼の活動はこの時代に限定されるものではなく、1970年代および1980年代においても継続されることになった。本発表では、マルコム・マクダウェル(Malcolm McDowell)の出演したミック・トラヴィス三部作 ― 『もしも…』(If…、1968)、『オー・ラッキー・マン!』(O Lucky Man!、1973)、『ブリタニア病院』(Britannia Hospital、1982) ― を特徴づけるアンダーソンの抵抗の契機に注目し、それが3部作においてどのように変奏されていくのかを分析することによって、<帝国>の表象の変化が戦後のイギリス社会の変遷と取り結ぶ関係について考察する。

●シンポジウム「独創的なアメリカ映画作家ロバート・アルトマンを論ずる」司会:藤田秀樹(富山大学教授)

  • アメリカの映画監督ロバート・アルトマン(英語の発音により忠実な表記を試みるなら「オルトマン」さらには「オートマン」となるのかもしれないが、ここでは「アルトマン」という慣用化された表記を使わせていただくことにする)は、いわゆる「ニュー・ハリウッド」という文脈で語られることが多い映画人といえる。アメリカの1960年代末期といえば、公民権運動、反戦運動、カウンターカルチャー、フェミニズムなど様々な運動に彩られる根底的な変革の時代であるが、そのような時代相と共振するかのように、アメリカ映画界もこの時期に大きな転換期を迎えることになる。それまで映画の「生産」を支えるシステムであったスタジオ・システムの衰微、検閲コードとしての「映画製作倫理規定」の廃止、前述のような変革の文化の主たる担い手であった若者たちが映画オーディエンスの主要な層を形成するようになったことなどの要因を背景に、この時期から1970年代半ば頃にかけて、従来のハリウッド映画のジャンルや話法や主題などをめぐる規範、公式、約束事にとらわれない、またはそれらを問い直そうとするような映画表現を実践し、その個性的なスタイルゆえにオートゥール=作家としての面影を備えた一群の映画監督たちが頭角を現す。ボブ・ラフェルソン、ハル・アシュビー、ウッディ・アレン、アラン・パクラなどからスティーブン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカス、マーティン・スコセッシなどのいわゆる「ムービー・ブラッツ」へと至る系譜であり、アルトマンもここに名を連ねる存在とみなされる。これらの革新者の中でもアルトマンは異端者的、因襲打破主義者的イメージが強く、それゆえかアメリカ映画界で浮沈と蛇行を繰り返してきたという観のある人物である。本シンポジウムでは、3つの作品を中心にこの異能の映画作家を論じることにする。これらの映画はいずれも『マッシュ』や『ナッシュビル』といった代表作に比べると論じられることがやや少ない作品かもしれないが、それゆえにこそ、討議を通してこれまで光の当たることがなかったアルトマンの新たな相貌が浮かび上がることになれば幸いである。
  • 「跳ぶまえに観ろ ― 対抗文化表象としての『BIRD★SHT』」 村上 東(秋田大学准教授)
  • 大江健三郎の「見るまえに跳べ」は、政治的に先進国に追従し自立し得ない日本の姿が、主人公の女性関係を隠喩として語られる作品であった。「跳べ」とは、現状の打破であり、政治運動への誘いである。『BIRD★SHT』(Brewster McCloud、1970)の主人公ブルースターは飛ぶための訓練を続けている若者。合衆国社会の中心たる富裕層や彼等の利益を守る警察も登場することを考えれば、大江の短篇と似通った意味を「飛ぶ」という喩にみることは可能である。しかしギリシャ神話のイカロスを下敷きにした筋立てであるから、主人公の墜落も予定されたものであると言えよう。おまけに主人公の住居兼訓練場は屋内野球場の核シェルターであり、冷戦期の合衆国社会のなかに幾重にも囲い込まれた存在と見なすことができる。対抗文化を弱いもの、小さなものとして描く作品はさまざまな表象文化の領域にみられるが、対抗文化との距離の取り方にはこの作品の独自性があろう。崖から飛び降りるのではなく、崖っぷちに立って世界を眺めることこそが、批判性や持続力を保証したのではなかったか。
  • 「アルトマン作品における『音』」 小野智恵(京都大学大学院博士後期課程)
  • そのキャリアを1951年にスタートさせたロバート・アルトマンは、自身の作品のなかで、常に新たな挑戦を試みた作家のひとりとして知られるが、殊に映画の「音声=サウンド」の歴史において偉大なるパイオニアであり、イノベーターであった。例えば、劇中で演奏される音楽をライブでステレオ録音したのも、あるいは電話での会話をじかに録音したのも、彼の『ナッシュビル』(Nashville、1975)が最初である。しかし、数々の試みのなかでも、アルトマンに最も特徴的であり独創的であるといえるのが「オーヴァーラッピング・ダイアローグ=重なり合うセリフ」であろう。本発表では、70年代にアルトマンらによって開発され、彼の特異なオーヴァーラッピング・ダイアローグを可能にした、ある先駆的な技術について検証する。そしてその技術によってより自由になったオーバヴァーラッピング・ダイアローグが、彼の作品の画面と、そして物語に与えた影響について考察する。
  • 「ジェンダー視座から『ギャンブラー』を読み解く」 藤田秀樹(富山大学教授)
  • アルトマンの「出世作」であり、また男根主義的、女性嫌悪的とも見えるその女性表象ゆえに多くの女性の憤激を買いそうな作品でもある『マッシュ』とは対照的に、その翌年に発表された『ギャンブラー』(McCabe and Mrs. Miller、1971)は、主人公の男性性を腐食、解体といった位相のもとで描き出しているように見える。たったひとりで漂泊する主人公がふらりと辺境の村に現れるというウェスタンの典型的な主人公導入の様式によって、物語は始まる。この主人公は、ひょんなことから凄腕のガン・ファイターというマッチョなペルソナを纏わされることになる。しかし物語の進行とともに、そのペルソナと彼の実像との齟齬が露わになっていく。そして最後に彼は、命を狙う荒くれの殺し屋たちと無様な戦いをしたあげく、吹雪の中で惨めな最期を遂げる。ウェスタンというアメリカ的男らしさの形成と称揚に深く関わってきたジャンルを通してこのような物語が語られることの意味や、もうひとりのタイトル・キャラクターである女性の役割などにも言及しつつ、この作品を男性性という視座から論じてみたい。