日本映画学会会報第5号(2006年9月号)

●書評 加藤幹郎著『ヒッチコック「裏窓」 ― ミステリの映画学』(みすず書房、2005年)

碓井みちこ(早稲田大学演劇博物館助手)

 本書は、ヒッチコック『裏窓』(1954)が、「古典的ハリウッド映画」期から「ポスト古典的ハリウッド映画」期の転換点に位置づけられることを明らかにした画期的な著作である。
 なかでも本書において卓越しているのは、『裏窓』についてはもはや何も言うことがないのではないかと思われるほど様々な言説が存在することを踏まえた上で、それら過去の言説にはなかった全く新しいものの見方――『裏窓』では、映画という視覚的媒体であるにもかかわらず、視覚的に自明なものはなにもない――を提示していることである。
 このような本書の『裏窓』に対する見方を象徴するのが、「『裏窓』では「殺人事件」は起きていない」という言葉である。もちろん、『裏窓』を「古典的ハリウッド映画」期の体制に位置づけて見た場合、そこで「殺人事件」が起きているということは十分可能である。しかし本書の主張によれば、この『裏窓』を、「ポスト古典的ハリウッド映画」期の中に位置づけて見た場合、そこでは「殺人事件」は起きていないのである。『裏窓』という一つのフィルムの中に、「古典的ハリウッド映画」と「ポスト古典的ハリウッド映画」の両期の特徴が同時に存在しているというのが、本書の基本的なスタンスである。
 さて、「古典的ハリウッド映画」とはそもそも何か。本書は、簡潔に次のように説明する。すなわち、「登場人物の視点ショット(「見た目」のショット)を通じて観客の感情移入をうながし、さらには観客がその登場人物の立場に立つことをうながす」体制である。このように考えるならば、足を骨折し部屋から動けない主人公の視点ショットを中心に物語が展開する『裏窓』は、明らかに、この古典的ハリウッド映画の体制の中で作られたフィルムである。しかも、主人公の視点ショットが全体の中で極めて多くの割合を占めているという意味では、この古典的な体制によりいっそう適応しようとしたフィルムであるとさえいえるだろう。そして、この体制のもとで、「殺人事件」のストーリーが観客に提供されるのである。
 他方、本書の定義する「ポスト古典的ハリウッド映画」とは何か。それは、「登場人物たちが見たと信じたものとじっさいに見られるものとの間に大きな亀裂が広がっている」映画である。この定義は、極めて興味深い。なぜなら、明確なストーリーを持たない映画がポスト古典(現代)の映画であるといった、しばしば紋切り型のように繰り返される説明を、本書は採用していないからである。おそらく本書の考えでは、ポスト古典的映画の真の特性とは、<見えるものの信憑性が曖昧になる>ということに尽きるのであり、その意味では、いっけん明確に思えるストーリーがあっても、それがむしろ見えるものの曖昧さの強化につながる場合もあると考えられているのだろう。実際、本書では、フランス・ヌーヴェル・ヴァーグにおけるポスト古典期の映画作家として、エリック・ロメール、クロード・シャブロルなど、J.L.ゴダールなどに比べると、ストーリーを作ることによりこだわっている作家たちの名を挙げている。なかでも本書が注目するのは、ロメールの『緑の光線』(1985)である。なぜなら、本作品では、緑の光線を共に見ることで恋愛が成就すると信じているヒロインと、そのヒロインの願望に同一化する観客との関係が、極めて皮肉な形で利用されているからである。見えたかどうか実際にははっきり分からない「緑の光線」を、ヒロインと共に多くの観客が見たと信じて、映画はそのまま終わりを迎える。しかし、実際には、最後の光線が「緑」であったかどうか、何の視覚的な根拠も与えられていない。従って、この映画は、多くの観客の信じるような「ハッピーエンドの恋愛映画」ではありえず、むしろ視覚的なメディアであるはずの自らのうちに視覚的な欺瞞を描いたアイロニカルなものとなる。そして、本書の主張するところによれば、この『緑の光線』のような、ポスト古典期映画の成熟に大きなきっかけを与えた作品こそが、ヒッチコック『裏窓』なのである。
 先に述べたように、『裏窓』は、多数の視点ショットを通じて主人公に観客を同一化させようとする点で、古典的な体制にのっとったフィルムである。しかし、他方では、「殺人事件」を信じる主人公に観客を同一化させようとするあまりに、主人公の視点ショットの中に、事件を示唆するこれ見よがしの道具立てを次々と提示することになり、その結果、事件が本当に実在するかどうか、その根拠が視覚的にはかなり曖昧なものになってしまっているフィルムでもある。
 本書に従い、事件を示唆する道具立てが、かえって事件の実在を曖昧にしているという『裏窓』の具体的な箇所をひとつ紹介しよう。それは、主人公の向かいの部屋に住む中年男ソーウォルドが花壇の周りを掘り返しているのを主人公が確認するという場面である。本書は、この場面の「曖昧さ」について、以下のように述べている。

「そもそも中年男[=ソーウォルド]が花壇を掘り返していたのは、彼の妻がまだ「裏窓」の向うにいるときだったということを多くの人は忘れてはいないでしょうか。妻がまだそこにいたとき、男は花壇に何の用があったのでしょうか。花の手入れでしょうか。それともそこが何かを隠すのに適しているかどうか確認していたのでしょうか。あるいはそのときすでに彼はそこに何かを隠していたのでしょうか。」(54頁)

 『裏窓』の最後の場面では、ソーウォルドが妻の死体の一部を花壇に埋めたということ、しかし見つかるのを恐れ、それを後で掘り返したということが、警官の口から説明される。最後にこの説明を聞くことにより、この映画を見た多くの観客は、ソーウォルドの不審な行動の意味、さらにはヒロイン達が一度花壇を掘り返したときそこから何も発見できなかったことの理由を理解し、それで安心してしまうのではないだろうか。しかし、『裏窓』において何がどのような順番で表象されていたかをつぶさに検討すれば、ソーウォルドの花壇を掘り返す行動は、実際には、妻が消えてしまう前に視覚化されていたのであり、ゆえに、その行動を妻の死体の隠蔽と結びつけることには、実際には明らかな矛盾が含まれている。しかし、このような矛盾を、多くの観客は見逃しているのである。
 本書における、具体的な場面に基づいた『裏窓』のポスト古典的特徴に関する分析の数々は、そのどれもが極めて示唆に富むものである。またこのような本書の分析は、決して『裏窓』一作のみに閉じられたものではない。というのは、本書は、『裏窓』だけではなく他のヒッチコック映画にも共通して見られる「「外見」と「内実」の乖離」の主題を抽出するとともに、他のヒッチコック映画に比べた場合の『裏窓』(あるいは『サイコ』(1960)、『フレンジー』(1972)など)におけるこの主題の追求の徹底ぶりについて述べているからである。
 本書によれば、見えているものが決して自明のものではありえないこと、すなわち、「「外見」と「内実」の乖離」をヒッチコック映画は早くからその主題としてきた。とはいえ、『裏窓』のように、「視覚的に自明なものはなにもない」というレベルまで「外見」と「内実」の乖離を徹底させることは、30−40年代前半のヒッチコック映画ではまだなされていない。例えば、『バルカン超特急』(1938)では、ヒロイン(と観客)にとって本当に起こったことであるかどうか曖昧だった「婦人消失」の謎は、最終的には解決され、いなくなっていた夫人も観客の前に再び姿を現す。また、『スミス夫妻』(1941)では、法的には夫婦でなく全く赤の他人であることが分かり、そのために喧嘩別れしてしまっていた「スミス夫妻」が、夫婦という外見に見合った内実を最後には達成することが、二人の仲直りする姿として観客に提示される。以上の例から分かるように、30−40年代前半に製作されたヒッチコック映画は、乖離していた「外見」と「内実」を、最後には再統一する手続きを取っているのであり、その意味では、先に述べたようなポスト古典期の特徴はまだ見られないのである。
 ヒッチコック映画における作品ごとの微妙な差異を取り出すことによって、ヒッチコック本人がどこまで意識していたかは不明であるとしても、50年代の『裏窓』、60年代の『サイコ』、さらには70年代の『フレンジー』などは、ヒッチコックがもともと持っていた主題をさらに深化させた作品群であることが分かる。つまり、これらの作品では、乖離した「外見」と「内実」が最後まで再統一されることはないという意味で、より徹底しているのである。なかでも、『裏窓』に次いで本書が多くの紙面を割いて分析しているのが、『サイコ』である。『裏窓』が、その片方の足を「古典的ハリウッド映画」、もう片方の足を「ポスト古典的ハリウッド映画」にほぼ均等に置いているとするならば、『サイコ』は「ポスト古典的ハリウッド映画」によりいっそう接近している。『サイコ』と比較することによって、『裏窓』が古典期・ポスト古典期の両期のはざまで絶妙のバランスを取った作品であることがよりいっそう明らかになる一方で、『サイコ』ではもはやそのバランスは壊れつつあることが浮き彫りになる。このような観点からの『裏窓』と『サイコ』の二作の比較もまた、これまでのヒッチコック批評・研究ではほとんど見られなかったものである。
 以上、駆け足で、本書の議論の核心となる部分を追ってきた。まとめるならば、本書は、ヒッチコック映画、なかでも『裏窓』に注目することによって、それが「古典的ハリウッド映画」から「ポスト古典的ハリウッド映画」への転換期に成立し、またその転換をよりいっそう推し進めるきっかけとなった作品であることを、作品テクストの分析、さらには他のヒッチコック映画との比較によって明らかにする。また、本書の射程は、ヒッチコック映画とフランス・ヌーヴェル・ヴァーグの相関史、さらには、映画史において視覚的認識の参照枠がいかなる形で変容したか、などより広く複雑な問題にまで及んでいる。映画学に関心を持つ若い学生向けの体裁を取ってはいるが、そこで展開されている諸々の議論は、映画を専門とする研究者にとってもきわめて刺激的である。是非一読を薦めたい。


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  • 須藤健太郎(横浜国立大学大学院環境情報学府博士後期課程)映画史
  • 住田光子(広島大学大学院博士課程後期)シェイクスピア翻案映画/ポストモダン研究

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