日本映画学会会報第28号(2011年9月号)

●日本映画学会会員のみなさまへのお知らせ

 第7回全国大会は2011年12月3日(土曜日)、京都大学にて開催されます。全国大会で個人口頭研究発表(25分発表+10分質疑応答)を御希望の方は本年9月19日までに600字程度の発表概要と仮題をお書きの上、日本映画学会事務局(cinema<atmark>art.mbox.media.kyoto-u.ac.jp [<atmark>に @を代入])までお申し込み下さい。そのさいe-mailの件名には「個人口頭研究発表」とお書き下さい。
 なおE-mailアドレス、住所、所属等、御変更の場合は、日本映画学事務局に早急に御連絡ください。

●視点 映画研究と小説研究の幸福な関係 ― 『その名にちなんで』におけるモチーフの焦点化をめぐって

山口和彦(東京学芸大学教育学部准教授)

 小説の映画化について語るのは難しい。とりわけ原作(小説)と映画の幸福な関係とは何なのかを語るのは難しい。小説読みが映画化された作品の出来映えに満足することはまれであろう。その主たる原因は、多くの場合、映画自体の欠陥にあるのではなく、あらかじめ強固に出来あがってしまっている観る側の主観にある。だからこそ、映画と原作(小説)は別物だと分かってはいても、映画を観はじめた途端にほとんど無意識に原作と対照しながらいらぬあら探しを始めてしまうのである。言葉だけで現実以上のリアリティを創造し、また想像させるのが小説だという価値基準を内面化すればするほど、映画的価値とは関係ない映画批評を行ってしまうらしい。映画化された作品を映画それ自体としてどう評したらいいのかは、小説読みにとって実に頭の痛い問題なのである。とはいえ、原作(小説)と映画という対立軸を取りはらってしまっては、ある種の貴重な批評的営為が失われてしまうことになるだろう。
 インド出身のミーラー・ナーイル監督の『その名にちなんで』(原題 The Namesake、2007年公開)という映画がある。タイトルが示すとおり、「名前」をめぐる物語であり、ひとりのインド系アメリカ人青年の心の葛藤を描く。アメリカへの移民である親世代とアメリカで生まれ育った子供世代の感情のすれ違いや相互理解、アメリカ文化とインド(ベンガル)文化の軋轢などを、ときに民族性豊かな叙情をもって描き出す。ボリウッド映画をはじめとするインド系文化の興隆のなか、興行的に大成功を収め、また、各国映画祭で絶賛された(この映画自身はボリウッド映画とは呼べないだろうが、主人公の両親の役にはボリウッド俳優を起用しているし、インド人からの映画への投資は多額だったという)。
 原作はカルカッタ出身の両親をもつインド系アメリカ作家ジュンパ・ラヒリの同名の小説(2003年)。短編集『病気の通訳』(Interpreter of Maladies, 1999; 邦訳『停電の夜に』)でピューリッツァ賞(2000年)を受賞したラヒリの長編第一作である。日本語訳者の小川高義氏が指摘しているように、ラヒリの小説は「緻密な観察力を土台にした肌理の細かい文章」で書かれ、「視点の変更が自在」であり、「時間の経過に基づいて感慨を成立させる作風」である(新潮文庫『停電の夜に』および『その名にちなんで』あとがき参照)。ラヒリの作品は基本的にインド系の人物の「特殊な」物語を紡ぎつつも、「誰の物語でもいいような普遍性」を獲得している。ようするに、〜系アメリカ人の共通体験をこえるポスト・エスニック性を特徴とする(「特殊」と「普遍」の関係はさまざまな問題を孕むが、ここではそれは問わない)。映画『その名にちなんで』の成功の一端は、叙情性と普遍性というラヒリ小説の特質を見事に映画的表現へと転換しえたことに求められるだろう。ちなみに、原作(小説)は回想的な物語にはめずらしく終始、現在形で語られることから、もともと映画向きのテクストだったといえるのかもしれない。
 もっとも、原作(小説)を忠実に映像化することが、どのような意味合いのものであれ、必ずしも映画の質を保証することにはならない。しばしばいわれるように、小説は時間的・観念的な芸術であり、映画は空間的・視覚的芸術であるとすれば、ひとつの次元から別の次元への転換にはさまざまな困難が待っている。なかでも、ある種の小説がもつ錯綜した観念の次元を、映画としてどのように表現するかは小説の映画化における最大の難題であろう。良くも悪くも、映画監督や脚本家による原作の「解釈」が問題となり、それが妥当かどうかを語るのが批評のひとつのスタンスとなるのもそれゆえだ。
 『その名にちなんで』のDVDに収められた特典映像には、ナーイル監督がコロンビア大学で行った一連のセミナーの様子が収録されており、映画化にあたって原作(小説)がどのように「解釈」されたのかを知る貴重な資料となっている。身近な人間を亡くした「悲しみ」がきっかけで映画のプロジェクトがスタートしたこと、移民の子供としての、また母親としての監督の経験が反映していること、約30年という長い時間の流れや感情の動きを説明なしに描こうとしたこと、過去と現在を直接結びつけるために「銀残し」という彩度が落ちる撮影法が使用されたこと、写真からインスピレーションを受けたこと、音楽の有効的な使用を考えたこと、編集によるテーマの普遍化を目指したことなど、映画制作の意図や裏事情があきらかにされている。もちろん「意図に関する誤謬(intentional fallacy)」ということもあるので注意が必要なのだが、映画化において小説のどのような要素が焦点化され、また逆に省略されているのかをわれわれは知ることができる。
 端的にいってしまえば、原作(小説)も映画も「名前」というそれ自体、高度に実存的・観念的なモチーフに貫かれている。アイデンティティ・クライシスに悩む主人公を据える物語にとってはこれ以上格好のモチーフはないだろう(とりわけ観念性を前景化する小説にとってはそうだろう)。誰しもが日常、当然のものとして使っている自分の「名前」だが、自身の存在証明という観点からはもっとも近しいものであると同時にどこまでも遠い存在だ。いうまでもなく、自分の「名前」(シニフィアン)と自分という「存在」(シニフィエ)は同じではない。しかし名ざされている自分と現実の自分を想像的に同定できない事態は、一種の精神的な病を呼びこむ。実際に『その名にちなんで』の主人公のように自分の「名前」に違和感をもつ人間は、えもいわれぬ疎外感・不安感に苛まれることになる。それは人間が置かれた不条理な存在状況の比喩ともなっているのだ。
 原作(小説)ではさまざまな登場人物たちが視点人物となり、それぞれが強くアイデンティティを模索し、悩み抜き、やがては精神的・内面的な自由を獲得する人物として造型され、複雑な人間関係のモザイクが展開される。そのことにより、移民家族の価値観の世代間相違や、インド文化とアメリカ文化に引き裂かれた者特有の苦しみを描くだけではない物語的広がりが獲得されている。通底しているのは、人間誰しも人生のさまざまな時期にさまざまなレヴェルで感じる精神的な「寄る辺なさ(in-betweenness)」というべきものである。
 当然のことであるが、原書で約300頁、約30年にわたるストーリーを約2時間の映画に凝縮するにあたり、ナーイル監督は原作の場面構成を変化させ、視点人物を限定化し、「名前」という観念的なモチーフの物語全体における純度を高めている。映画『その名にちなんで』は、上述の原作(小説)のもつ美点をある程度継承しつつも、「名前」をめぐる主人公のアイデンティティ・クライシスとその内面が焦点化されるのだ(ただし、ナーイル監督の視点を温存するかのように、母親アシマの視点は色濃く残されている)。
 小説同様、「名前」をめぐる議論はあっても、親子間の過激な対立は描かれないことは偶然ではない。「ゴーゴリ」という主人公の名は奇人変人としても高名であったロシア人作家にちなんだものだが、他人から不思議がられたり、茶化されたりする本人はその名前に抵抗感を抱くばかりだ。映画『その名にちなんで』の主人公は、名前に託された親の思いを知らないでいるからこそ思い悩む、どこにでもいるごく普通の人物であることが強調されている。つまり、映画は「名前」をめぐる主人公の個の内面の悩みを中心に描きながら、逆説的に普遍的な人間の「寄る辺なさ」を表現することを目指しているといえるのだ。
 内面描写といえば、かつては小説の特権的・独占的なテクニックであった。「意識の流れ」や「内的独白」といった手法も編み出されたように、内面描写の出来映えが、人間が描けているかどうかという小説的価値を決定するひとつの基準にもなったともいえる。その意味でも、人間を立体的に描いた原作(小説)の映画化においては、登場人物の内面を映画ならではの「言語」を駆使して、別の方法論をもつ作品として成立させなければならない。ナレーション(声)で過度に説明してしまうのは、この場合、小説の映画化の意義を減退させることになるだろう(フランソワ・トリュフォーやエリック・ロメールの映画のような優れた例外もあるだろうが)。逆にいえば、登場人物の内面を映像や音楽などを含めた(ときには不在や沈黙も)、こういってよければ映画の総合的な言語表現によって、どれだけ観る者に想像させることができるかが、『その名にちなんで』のような映画の成否の分かれ目となろう。
 ゴーゴリの誕生で幕をあける小説の冒頭では、産気をもよおしたアシマが夫のアショケに助けを求めようとするが、我知らず声を発することができずに当惑する。「夫の名前を口にするのはベンガル人の妻がすることではない」からだ。妊娠小説かと思わせる出だし数ページで、「名前」がこの小説のモチーフであることが暗示されている。一方、映画の出だしは主人公にゴーゴリという名前が付けられるきっかけとなったカルカッタ郊外の列車事故のシーンだ。列車の客室内で作家ゴーゴリの短編小説「外套」を読んでいたアショケが、突然の大惨事に見舞われる。タイトル・クレジットが挿入された後、全身に包帯を巻かれたアショケが映しだれるが、どのように列車事故から彼が救出されたのかは映画の中盤まで分からない。それが分かるためには、映画中盤のハイライトである、アショケが息子にゴーゴリと名づけた本当の理由を打ち明けるシーンを待たなければならない。映画の終わりでは、今度は列車に乗った息子ゴーゴリが「外套」を読んでいるように、「名前」をめぐる主人公の内面の葛藤が解消されたことが示される(「われわれは皆ゴーゴリの『外套』のなかから生まれた」というドストエフスキーの言葉の受容と同調する)。映画では、すべての出来事の始まりともいえる列車事故のシーンを冒頭に置くことで、「名前」のモチーフを主人公のアイデンティティ・クライシスの問題に焦点化しているのである。
 このことに関連し効果的なのは原作にはないシーンの創作である。たとえば、ゴーゴリが父の死の直後に床屋で頭を剃るシーンは小説にはない(ベンガルでは親が死ぬと喪に服すために男は頭を剃る慣習があるそうだ)。パンク音楽を背に、堅い表情のゴーゴリが頭を剃られるシーンでは、昔、親を亡くしたアショケが頭を剃るのを傍らから眺める幼き日のゴーゴリの姿が挿入される。台詞を用いずに、死んでしまった父(名前を授与した人物)に対するゴーゴリの罪悪感や自分自身に対する内なる怒りが、映画的特性を利して見事に表現されている。そのように小説的表現では難しい映画的特性を十全に活用したシーンは、ほかにも列車事故のシーンの作家ゴーゴリの本を握るアショケの手のクローズアップや、ガンジス川でアショケの遺灰がまかれる散骨式のシーン(子供たちがすぐ水浴びをしている!)など数多くある。
 もっとも範例的なのは、名前の真の由来を知らないまま改名してしまった主人公がそれを知るシーンと、このシーンを中心化する全体的な構成だろう。映画内で随所にでてくる「名前」をめぐるエピソードは、父親アショケが息子ゴーゴリにいう「お前のことを思うとあの列車事故以降のすべてを思い出す。あれからの毎日が天の恵みだ、ゴーゴリ(You remind me of everything that followed. Everyday since then has been a gift, Gogol.)」という言葉に一気に収斂していくように映画の物語全体は構成されている。この言葉は主人公が死去する父から最後に聞いた言葉として映画中盤で提示されるが、後半での主人公の行動様式や映画のトーンを規定する鍵となっている。このような仕掛けの美徳は、人間を描き、ドラマを深いものにするために欠かすことができない。この仕掛けは原作(小説)でも同様にあるらしいが、小説を読んだだけでは気づきにくい。映画化された作品を観て、小説に立ち返り、あらためて気づくような美点なのだ。
 もちろん、映画化によって原作の優れた側面が全く消されていないとはいえない。一例をあげれば、主人公が突然他界した父の遺体と対面するまでの描写は、父の死を受け入れたくない主人公の無意識を丹念に描き出す小説の方が断然優れているだろう。映画では時間配分やメディアの特性を考慮しても、父の他界の知らせを聞いてから対面までがスピーディにすぎるからだ。ただし、そのような映画のスピード感は、葛藤の末、改名した主人公が突如、生まれ変わったかのように白人女性と恋に落ちるシーンなどでは美徳に反転する。
 映画『その名にちなんで』についてこのように考えてくると、小説研究と映画研究の幸福な関係を切り開く可能性に思い至る。総体的なイメージを保ちながらモチーフを焦点化し、人間を描く際に映画的表現としての良質な独自性を創出する。そうすることで、原作(小説)を照射し、そこに新しい意味がもたらされ、また逆に、小説の再読から映画に新しい意味がもたらされる可能性。そのような小説と映画の相互作用を通した幸福な関係が築かれうる可能性を『その名にちなんで』という映画は例証しているように思われる。素朴だが、小説的想像力と映画的想像力の相違や共通項を確かめ、それらをわれわれがどのように受けとめているのかを探る作業がここにはあるはずだ。それは映画を観て原作(小説)を読破したと思いこんでしまう錯誤とは相容れない骨の折れる作業であろう。もちろん、商業映画の限界も視野に入れなければならないし、過度の一般化をさけて小説それぞれの特殊性も考慮に入れなければならない(『その名にちなんで』の主題は長編小説向きでなく、短編小説向き、あるいは映画向きであったという声も実際ある)。そういった副次的なことも含めて、原作(小説)と映画が優劣の価値観を超えて二つの次元から共鳴しあう小説と映画の幸福な関係を見出す道へと、『その名にちなんで』はあらためてわれわれを誘っているように思われるのである。

引用文献
Lahiri, Jhumpa. Interpreter of Maladies. New York: Houghton Mifflin Harcourt, 2000. ラヒリ、ジュンパ『停電の夜に』小川高義訳、新潮社、2003年。
---. The Namesake. New York: Mariner, 2004. ラヒリ、ジュンパ『その名にちなんで』小川高義訳、新潮社、2007年。
『その名にちなんで』、ミーラー・ナーイル監督、Twentieth Century Fox、2007年、DVD (20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン、2008年)。


●書評 國友万裕『マッチョになりたい!? — 世紀末ハリウッド映画の男性イメージ』(彩流社、2011年)

吉村いづみ(名古屋文化短期大学教授)

 

 ボディビルの男性が扉に描かれたポップな装丁は、男女問わず、思わず手に取ってみたくなるほど刺激的だ。『マッチョになりたい!?』の魅力は、何と言っても研究者から一般の読者まで一気に読ませる面白さにある。それだけではない。本書はそのポップなタッチとは裏腹に、膨大な資料と綿密な考察のもと、映画とマスキュリニティについて論じた、「極めて真面目な」研究書なのである。日本でも、ジェンダー的視点で書かれた映画研究書はこれまでにも多数出されている。しかし、ここまでわかりやすく、ハリウッド映画と男性学との密接な関係を提示してくれる書は見あたらないのではないだろうか。
 著者の國友万裕氏とは、数年前、本学会のシンポジウムで一緒に発表を行う機会に恵まれた。立派な体格の中に、優しい心を宿した男性である。本書の「まえがき」にも書かれているが、「子供のころからスポーツや喧嘩ができず、女の腐ったような子だと言われ、心のバランスを崩したこと」が、男性問題を真剣に考えるきっかけになったという。やがて男性運動に参加することになり、日本よりはるかに進んでいるアメリカの男性学に傾倒していくのだが、そうした経緯とスタンスが、本書の最大の魅力である「視点」の基盤となっている。
 さらに、少年時代に「自分の殻に閉じこもり、映画オタクになった」ことが、結果的に映画研究者としての分析力や洞察力を養う原動力になった。まさしく、本書には、著者がこれまでの人生で獲得してきた「経験と知」が集約されているのである。映画研究者やジェンダー研究者にとっては新鮮な発見につながるだろうし、一般の読者にとっては男性学という学問と、映画研究の奥深さを知ることができる、格好の教養書になることであろう。
 ここで本書のテーマを紹介しておきたい。全体をとおして綴られているのは、現代の産業社会のなかで、男性性を獲得することがいかに困難か、ということだ。著者が理論を進める上で、重要なキーワードとなるのが、ミソポエティック運動を率いるロバート・ブライが名付けた「ソフト・メイル」(1970年代以降に出現した、地球を傷つけることや、戦争を始めることなんぞに興味を持たない、自分の中の「女性的」な側面を大事にする男たち)である。70年代のソフト・メイルは社会的な自立に目覚めた女性たちに振り回される男であり、80年代のソフト・メイルは、女性の凶行に脅かされる男であった。それでは90年代のソフト・メイルとはどのような男なのか?著者は、90年代末の9本の映画を読み解きながら、それらが「男としてのアイデンティティを掴むことができないまま、大人になってしまった男」たちのドラマであることを次々と論証していく。通常ならば見過ごしてしまいそうな数々のショットを、実に鮮やかに切り取る手腕にいつのまにか惹きこまれてしまうのだが、本書は単なる面白さだけでは終わらず、現代社会とジェンダーにまつわる様々な問題も考えさせてくれる。
 例えば、第一部で取り上げられている映画『G.I.ジェーン』(1997年)は、ここでは女性の活躍ではなく、男性差別を訴える映画として取り上げられている。徴兵問題はマスキュリズムの大きな争点の一つである。著者はこの映画を「男女平等と主張しながら、女が戦争へ行くことには賛成しないフェミニズムのご都合主義を、男性の立場から厳しく糾弾している映画」であると考察する。さらに、この映画のもう一つの側面である戦争と同性愛の密接な関係に言及し、男性のセクシュアリティのなかには、男性(同性)を求める欲望と女性(異性)を求める欲望が混在していることを明らかにする。
 男が男を愛する同性愛への欲望や、それを排除しようとする同性愛恐怖(ホモフォビア)は第一部に関わらず、全体を通して核となっているテーマでもある。特に、第二部の中心となる『アメリカン・ビューティー』(1999年)で、最終的に主人公の中年男、リッキーを射殺してしまうフィッツの同性愛恐怖が緻密なショット分析とともに語られていく箇所は、ゾクゾクするほど面白い。映画の醍醐味は、小説と異なり、俳優の肉体を実際に目にすることができるところにある。フィッツがリッキーをとらえる視線が、リッキーの胸板の表象や懸垂のリズムといった具体例とともに語られ、読者はいつのまにか、男性の裸体を客体として見つめる視線になっていることに気がつかされるだろう。
 第三部の「見られる男、見つめる女」では、こうした男性の裸体表象を「見つめる」のは誰かを検証することを目的としている。いわば「男・見る主体 女・見られる主体」というローラ・マルヴィの説を再考する試みである。「ハリウッドには女性監督の地位が低いので、まだまだ女性の感性で描く男性裸体を分析することは難しい」としながらも、「男も客体化されたがっているが、男が客体となるとき、視線の担い手となるのは女ではなく、男性である」と結んでいる。この主張に関しては、まだまだ今後検証していく必要があるだろうが、論拠となっている様々な先行研究や、自分の経験上の知識を集積してみる限り、確かに納得できるのである。
 第一部から第三部までを合わせると、全部で九章の構成となっており、各章が一つの映画を中心に展開されている。上記に述べた以外にも「父性の存在」、「男性の性愛のプロセス」、「通過儀礼」など、男性性の構築に不可欠な様々な要素が、それぞれの章で縦横無尽に語られているところを評価したい。特に、それぞれの章で展開される主張の論拠となる男性学の言説の引用は、女性学に比べてわかりづらいとされる男性学の全貌や、アメリカで行われている男性運動の最前線を知ることができる貴重な資料である。著者は「女性の登場人物については、それほど同情的な考察をしなかったこと」を少々申し訳なく思っているようだが、むしろそのおかげで男性が抱える問題がすっきりと見えてくる。
 全体を読み終えて思うことは、男という性がいかに不安定であるか、ということだ。女性が成長過程で生理や妊娠といった、自分の意思ではどうにもならない現象によって性を意識させられるのに対し、男性の体には自分の性を明確に意識させられるような変化が起きない。少年が男性、あるいは父親といった文化的な境界へ移行するためには、自分の体に何らかの指標を人工的に刻みこみ、アイデンティティを自認させる必要があるのかもしれない。おそらくそれがタトゥーであったり、鍛え上げられたファルス的な身体であったりするのだろう。ところが、そうした身体を見せること自体、男性性の不安を物語っている(最終章)とすれば、いったい男性性というのは現代社会に存在しえるのだろうか。存在する必要などないのに、国家や女たちから要求されるから、男たちは行き詰っているのではないかとさえ思えてくる。タイトルになっている『マッチョになりたい!?』とは、そうした行き場を失いつつある男たちが自分に投げかける、究極の問いなのではないだろうか。
 さて、本書は2000年以降の映画については言及していないが、その後、ハリウッド映画のマスキュリニティはどのように描かれているのだろうか。著者は第九章の「生殖なき時代のマスキュリニティ」で、今後の男女の行方を予測する示唆に富んだ発言をしている。『マトリックス』を、「セックスの臭いを感じさせない、エロティックではない時代のSF映画であり、アクションもコンピュータ―・ゲームのような人工的で人間臭のないものである。そこに90年代の特異性が感じられる。」と分析しているのだ。確かに今後さらにテクノロジーが進むにつれ、肉体や生殖につながるセクシュアリティはますます周縁化していくであろう。さらに、著者は、今後のSFアクションのヒーローの条件として、「自分自身の分身、すなわちアバタ―を巧みに操作すること」と結んでいる。これはどのように実証できるだろうか。最後に、著者の主張を受け継ぐ形で、私なりの考察を加えておきたい。
 2000年以降のSF映画、例えば2009年の『アバタ―』や『サロゲート』を見る限り、確かに、現実の肉体は「ままならない障害物」でしかなく、アバタ―の巧みな操作がヒーローの条件のように思える。それだけではない。例えば『アバタ―』の主人公が乗りこなすのは、実に「均整のとれたパワフルな身体」で、結末では障害を抱えた現実の肉体に別れを告げ、アパターの身体に乗り移るのである。『マトリックス』のサイバー空間が無性的で人間臭を感じさせないものあったのに対し、『アバタ―』として生きる世界は、主人公にとって、現実の世界よりもエネルギッシュでセクシュアリティに満ちている。あたかもサイバー空間が、現実の世界を凌駕したような感がある。
 一方、『サロゲート』のなかで、人間たちが操作するのは、「老化しない、完全に美しい身体」である。アバタ―(この映画では「サロゲート」)を操作することに慣れてしまった人間たちは、もはや現実の肉体を人前にさらすことすらできない。ブルース・ウィルス演じる主人公は、壊れかけていくサイバー空間から現実の世界を救うべく、生身の肉体で敢然と戦う。ラストシーンで、家庭内別居状態であった妻と、念願の再会を果たすところがこの映画のクライマックスなのだが、観客はほっと安堵すると同時に、生身の妻の姿を目にして妙な感覚にとらわれるのではないだろうか。命を懸けて戦った報奨が、若さもセクシュアリティもない、初老の女なのである。この映画の大きなテーマは人間らしい世界の再生であり、ヘテロセクシュアルな「男性性」の再生も感じられるのだが、実際には、人間の肉体と生殖の限界を強く感じさせるものにもなっている。現実の世界とテクノロジーの力が拮抗するなかで、今後どのようにマスキュリニティが描かれていくのか。今後の國友氏の活躍とともに注目していきたいテーマである。

●新入会員紹介

  • クラマー羽奈江(ハワイ大学 Communication and Information Sciences学部博士課程修了2010年)満州国の宣撫政策と映画
  • 小出正志(東京造形大学教授)アニメーション理論、アニメーション教育
  • 徳原真穂(京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程)映画史・映画美学(ストローブ=ユイレ研究)
  • 萩埜 亮(早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程)アメリカ文学、文学理論、文学と映画学
  • 藤城孝輔(ケント大学大学院修士課程)アジア映画(中国、香港、台湾、日本)、映画と翻訳
  • ジョン ミジュ(日本大学大学院芸術学研究科専攻博士後期課程)映画・ドキュメンタリー