日本映画学会会報第29号(2011年11月号)

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●書評 亀井克朗著『〈死〉への/からの転回としての映画―アンドレイ・タルコフスキーの後期作品を中心に―』(致良出版社、2011年、台湾)

大石和久(北海学園大学人文学部教授)

 本書は、亀井氏がこれまで10年以上にわたって発表してきた論文をまとめた論文集であり、著者初の出版書である。全9章からなる本書は、第1部と第2部に分かれる。第1部は第1章から第6章までのタルコフスキー論であり、第2部は第7章から第9章まででタルコフスキー以外の監督の諸作品が取り上げられている。タルコフスキー論では彼の後期の諸作品『ストーカー』(1979)、『ノスタルジア』(1983)、そして『サクリファイス』(1986)が考察される。また、タルコフスキー以外の監督の諸作品としては、ヴィム・ヴェンダースの『エンド・オブ・バイオレンス』(1997)、黒沢清の『回路』(2000)、侯孝賢の『好男好女』(1995)が論じられる。
 本書の目的は「ロシア(旧ソ連)の映画監督であるアンドレイ・タルコフスキーの作品を具体的に検討し、その作品を貫いている根本思想を明らかにすることにある」(3)[本書評では( )内に引用した箇所の頁数を示す]。以下、本書評では本書の内容を紹介しながら、著者が考えるタルコフスキーの「根本思想」とはいかなるものかということに迫りたい。予め言っておけば、それは内部と外部、生と死などを対立させて捉える二分法の枠組みを越え、それらが相即し合うような世界の根源へと向かう思考である、ということになるだろう(著者自身もジャック・デリダに言及しているように、それは一種の「脱構築」的思考であると言ってもいいだろう)。また、著者はタルコフスキー以外の映画監督にもタルコフスキーと同様に、二分法に収まらない世界の根源に迫るような思考を見出している。このような世界の根源とは、タルコフスキー映画において聖なるものとして現れるだろう。それゆえ、著者はタルコフスキーを「神なき時代」の今日にあってなお「聖性を映画において探求する」映画監督である、と言うのである(69)。とすれば、世界の根源へ迫るタルコフスキーの思想は、神なき時代における映画の神学とでも言うべきものである。しばしば「難解」と言われるタルコフスキーの映画に著者は、このような神学を読み取ってゆく。そして、その理解こそが、本書の一見謎めいたタイトル(『〈死〉への/からの転回としての映画』)の意味を読み解く鍵となる、と思われる(これについては後述)。
  ただし、著者の視線は単なる神学者としてのタルコフスキーではなく、あくまでも映画監督としてのタルコフスキーに向かっていることを、ここですぐさま言い添えなくてはならない。著者は次のように言う。「取り上げた映画作品の経験は、世界観・人生観を一変させるような質を有する。本論考は第一に、そうした映画の根本体験に迫ることを目的とする」()。とすれば、著者の狙いはタルコフスキーの根本思想の解明のみならず、それがいかにして観客に映画的経験として与えられているのかの解明にもあるわけである。そのための方法論として著者は現象学を用い、映画作品の「現象学的記述」によって「作品経験の本質」を把握しようとする(同上)。それゆえ、本書は映画の肌理に即した繊細な記述からなり―是非とも本書で確認していただきたい―、それは常に具体性を失わないのである。では、以下、本書の内容を紹介したい。
 序論では、タルコフスキーのフィルモグラフィーや著作についてロシア語の原典に基づいた確認がなされ、さらにはタルコフスキーに関する文献の批判的検討がなされる。その上で、まず第1章で取り上げられるのは『ストーカー』である。著者によれば、タルコフスキーの思想が明確に示されるのは『ノスタルジア』と『サクリファイス』という晩年の二作であるが、『ストーカー』にも既にその思想が先駆的に現れている。ストーカーとは、危険で未知の地帯「ゾーン」を案内する者である。ゾーンの中には人の望みが叶えられる部屋が存在する、という。ただし、そこで叶えられる望みとは「秘められた望み」であって、「自分の本性、本質に相応しい」ものである(48)。これは、自己の本性が秘められている、未知のものであることを示唆している。自分の本性や本質がこのように未知のものなのであれば、自己の最も内奥の部分とは実は自己の外部でもある、と言わざるを得ないだろう。そのような自己のいわば内なる外を、単なる外部(「相対的な外部」)とは区別し、「絶対的な外部」と著者は呼ぶ(49)。ゾーンとはこのような「絶対的な外部」だったのである。未知なる自己に出会うとは内なる他者に出会うことであるならば、それは「自己の同一性」を危機に陥れることでもあって、それにともなう「苦しみ」を受けることでもあるだろう(51)。「作家」が部屋に入ることを恐怖し、「ヤマアラシ」が部屋に入った後で首を吊るのは、そのためである(同上)。さて、こうして著者が明らかにするのは、願いが叶えられる部屋とは実はストーカーの家のことでもあった、ということである。著者は言う。ストーカーがゾーンにて発した「私の幸福、私の自由、尊厳、すべてはここにある」という台詞は、「〈今ここ〉(=ストーカーの家)で発せられてよいものとなる」、と(54)。『ストーカー』という映画は、このようにいわば〈青い鳥〉的円環構造をもつ。ゾーンにおいて人は自己の死を経て自己自身へと回帰する。それと同様に、ストーカーは死の恐怖を経て自らが生を営んできた家へと回帰した。死を経ることは、生と対立する彼岸に至ることではない。逆説的にも、死を経ることでわれわれは初めて、われわれが生きている〈今ここ〉の生の現場(=家)へと辿り着くのである。ストーカーの妻の態度が、ストーカーがゾーンへ出発したときとそこから帰宅したときとで一変する―ストーカーの出発時は激しく罵るその妻は、彼の帰宅後は別人のように癒し救う妻となる―理由はここにある。夫との死別のごとき苦しみを経験し、自身もいわば死を体験した妻もまた、絶対的外部に身を晒し、自らの家こそが「幸福の源泉」たる〈今ここ〉であることを自覚したのである(55)。妻がまるでドキュメンタリーのようにカメラへ正面を向いて台詞を話すシーン、それは妻が自らの死を通して自己自身に到達したことの映画的表現である、と著者は言う。
 以上見てきたように、タルコフスキーの映画にあっては内部と外部、自己と他者、生と死の二分法は乗り越えられ、内部が外部と、自己が他者と、生が死と相即するような世界が現出する。二分法に囚われたわれわれの眼には隠されていたとはいえ、それが世界の根源的姿である。要するに、著者が明らかにする映画監督タルコフスキーの「根本思想」とは二分法的対立を乗り越えて、それらが相即する根源的世界へ迫る思考なのである。第2章でもタルコフスキーのそのような「根本思考」が示される。
 第2章では『ノスタルジア』の登場人物の一人、ドメニコが取り上げられ、その「ユロージヴィ(瘋癲行者)」としての性格が明らかにされる。この映画の中でドメニコは狂人扱いされる男として登場する。著者によればドメニコは、タルコフスキーが深い関心を寄せていた中世ロシアの「聖なる愚者」ユロージヴィの系譜に繋がる者である(67)。「神がかり」の狂気を見せるユロージヴィはこの世の規範を越え、聖なる領域へと向かい、そこにある聖なる真理へと迫る(69)。それゆえ、ユロージヴィは聖なる存在であったのだし、俗世を批判する力をもっていた。それでは、狂気が迫るその聖なる真理とはなにか。それはドメニコの演説が現代社会における「効率主義」を批判するときに明らかになるだろう。「効率的生を止め、虫の羽音に耳を傾けるとき、先駆的に未来に向かって奉仕する役割に従属させられていた現在が本来の豊かさを取り戻す」(82)。つまり、ドメニコ=ユロージヴィの狂気が捉えた聖なる真理とは〈今ここ〉の真理である。とすれば、ドメニコが接近し得た聖なる領域とは―われわれが効率主義に囚われ気付かずにいたとしても―、実はわれわれの生の現場としての〈今ここ〉であった。ドメニコが演説をぶつとき立っていたのが、「各人はただ現在、この一瞬にすぎない現在のみを生きる」と言ったマルクス・アウレーリウスの像であったことは、偶然ではなかったのである(82)。ドメニコの演説は彼の焼身自殺で終わる。ドミニコが焔に包まれ叫ぶ中、音楽の再生装置の故障を契機に音楽と焔と叫びが内的に連関し始め、死と生の二分法を越えた「外」の領域が開示される(89)。この「外」の領域はタルコフスキーによる音楽と映像のアンサンブルによって、つまり彼の演出を通して観客に対してのみ開示される、と著者が指摘していることに注意したい。著者はタルコフスキーを単なる神学者ではなく、あくまでも映画の神学者として、すなわち映画とは不可分の神学を語る者として捉えているのである。狂と聖とが両義的に共存する、二分法を越えたこの「外」の領域は「語り得ないもの」であり、それがタルコフスキー作品を語ることの「困難さ」である(90)。しかし、著者はこうも言っていることを付け加えておこう。タルコフスキー作品を語る者は「それを語る困難さを引き受けることから逃れられない場所にいる」(同上)。
 第3章では『ノスタルジア』の主人公ゴルチャコフが取り上げられる。ゴルチャコフは、旅先のイタリアで「ノスタルジア」にとりつかれたロシアの詩人である。ゴルチャコフは郷愁に駆られ、故郷ロシアへと思いを馳せる。著者によれば、ゴルチャコフの回想するロシアは「他界」である。「ノスタルジアは〈他界への郷愁〉とも言うべきものである」(98)。どうしてそう言えるのか。たとえば、ロシアの回想場面で画面中央に据えられた柱。著者によれば、それは「宇宙軸」あるいは「生命樹」として捉えることができる(96)。つまりこの柱はそこが天と地の交流地点であり、他界が現出する場であることを示しているのである。ここで注意すべきは、この他界は現実と対立する領域であるのではなく、現実そのものでもあることである。ここに、この映画で「箱庭」という主題が登場する理由がある。箱庭は一般に「楽園」ないしは「彼岸」を指し示すモチーフである(114)。この箱庭の風景はゴルチャコフの想起するロシアの風景と重なっていて、回想のロシアが他界であることを示している。ここで著者は、この箱庭が、ゴルチャコフが訪れていたイタリアの現実の風景を借景としていることに注意を促す。箱庭とその借景は連続しているのだから、「「ノスタルジア」の対象であるロシア=他界が現実=イタリアと接続する」(115)。他界と現実は地続きなのである。ここにも二分法的思考を越えたタルコフスキーの根本思想を見ることができよう。タルコフスキー映画における他界とは表面的に現実と対立する他界ではなく、根源的に現実と連続している他界である。われわれは日常気付かぬうちに、そのような他界を、つまり〈今ここ〉の他界を実は生きている。他界=現実とは〈今ここ〉ですべての「生を在らしめている〈在る〉こと」、あるいは端的に言えば「神の〈在る〉」である(104-105)。箱庭と借景が連続していること、それは〈今ここ〉が同時にすでに神聖な領域でもあることを示唆していたのである。
 第4章では、〈今ここ〉の他界の出現がタルコフスキーの遺作『サクリファイス』において指摘される。この映画において描かれる核戦争の勃発は「他界の出現、あるいは露呈」をあらわしている(136)。それはなぜか。それは、この映画には他界現出を示すしるしが多く登場するからである。たとえば、それは「箱庭」的な「小さな家」であり、「霊的な性格」をもつ「白夜」であり、同じく「霊的な物質」である「牛乳」であり、また他界への位相の転換を告げ知らせる「轟音」である(136-143)。注意しよう。他界とはここでももちろん生に対立する領域を指すのではない。著者は言う。「他界とは一瞬ごとにこの世を在らしめている作用であり、したがって一瞬毎が世界の始まりであり、終わりである」(143)。〈今ここ〉の生とは、それが一瞬毎の生起であるがゆえにその始まりは同時にその終わり、つまり他界なのである。戦争勃発時、この映画の主人公アレクサンデルは上に挙げた「箱庭」的な「小さな家」を覗く。そのとき、アレクサンデルは「奇妙にねじれ傾く」その上半身のクロースアップと、「中枢性」を失ったようなスローモーションによって写し出される(137-138)。われわれはこのようなクロースアップとスローモーションにある不安定さを感じるのだが、それはアレクサンデルの身に起こっている異常への身体的共感に他ならない。著者はここで「像」の理解を「間身体性」に求めたメルロ=ポンティを引用しながら、次のように言う。「画面上に知覚する他者に異常なる事態が起こっていることを察知するのは、観客がそこに、自らの身体の志向を交じらせているからである」(139)。他界の現出によってアレクサンデルの身に起きた異常をわれわれは、クロースアップとスローモーションといった映画的技法を通じて、身体的に理解するのである。繰り返しになるが、このような指摘からも分かるように著者はあくまでも映画作家としてのタルコフスキーに視線を向けており、われわれの映画的体験に忠実であろうとするのである。
 第5章では『サクリファイス』における「犠牲」というテーマに焦点が当てられる。ここに言う「犠牲」とは、上に見た「他界」の問題と結び付けられて考えられるべきものであって、著者によれば「犠牲とは、他界との接触を拒んでいる地上の生活の秩序を、自発的に破壊することによって、他界との接触を成し遂げること」(148)である。まず、本映画のタイトル・バックに写し出されたレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画『マギの礼拝』と、それにかぶさるJ・S・バッハ『マタイ受難曲』(BMV244)の第39曲のアリア「ペテロの否認」がいかに、この「犠牲」というテーマに結び付いているかが述べられる(149-155)。その上で、アレクサンデルが核戦争後の世界を救ってくれた神への「犠牲」として、自分の家を焼き払うシーンが言及される。問題は、核戦争は現実に起こったのか、現実ではないのか(アレクサンデルの幻想であったのか)、という点である。この映画ではそれが現実か非現実なのか識別不可能なものとして描かれているが、著者はこの問いは最終的には無効化される、と指摘する。アレクサンデルにとって世界は核戦争後、神の奇跡によって救済されたものとしてあり、それと引き換えに家が犠牲として捧げられた。ところで、世界とはその根源的姿においては、一瞬毎に破壊と創造を繰り返して止まない〈今ここ〉の他界ではなかったか。核戦争とはその破壊を、神の奇跡による救済とはその創造を示しているのである。とすれば、核戦争は現実か否かという問い自体が成り立たなくなるだろう。「核戦争の勃発と消滅が根源的次元の開示となって問いの存立基盤である「現実」の自明性を崩壊させる」のである(165)。
 タルコフスキーについては最終章となる第6章においては、『サクリファイス』における「共苦」、そして「共同体」について述べられる。「共苦は、この世とは別の次元でのつながり(共同体)に基づく」(171)。この「別の次元」とは、上に見てきた「他界」、あるいは「聖なる領域」を指す(同上)。まずアレクサンデルは、オットーの言う「ツァラトゥストラ」(ニーチェ)であって「同情」によって気絶する者であることが指摘される(173)。次に、核戦争が勃発してから、すべての人々を救って欲しいと一人祈るアレクサンデルの祈りが分析される。それは「地の底から湧き上がってくるような一つの共感する魂」(谷寿美)から発せられた祈りであって、19世紀のロシアのユロージヴィ、イヴァン・ヤコーヴレヴィッチの祈りに比すべき祈りである(179)。この戦争は、アレクサンデルが魔女マリアと一夜を過ごすことで戦争が終結するのだが、これに関して著者は次のことを指摘している。まず、マリアが魔女であることは彼女が「他界とこの世の境界的存在」であることを示していること(183)。そして、アレクサンデルの苦しみに共感し涙を流すマリアは共苦の魂をもつ者で、その一夜を通じて、マリアとアレクサンデルの間に他界に根ざした共苦の共同体が成就することである(189)。ダ・ヴィンチの絵画『マギの礼拝』がこの一夜のシークエンスにインサートされることから分かるように、魔女マリアは聖母マリアに、アレクサンデルはキリストに見立てられている。そうして「アレクサンデルは他界と接触し、この世を在らしめているものとひとつの者として再び地上に降り立つ」(同上)。このようにアレクサンデルはいわば神としてこの世に降り立つわけであるが、このことはこの映画の冒頭と最後に登場する松の木によっても暗示されているだろう。というのも、日本文化に造詣が深いタルコフスキーはアレクサンデルにその松の木を「日本の生け花のようだ」と言わせており(196)、著者によれば生け花における松とは「神の示現を待つ(=松)」(同上)ことを意味しているのだから。映画のラストショット、光に満ちた松の木の姿が写し出される。このショットについての次のような美しい文章で、この章は締めくくられる。それは、タルコフスキーの神学がいかに映画体験と不可分なのかを物語る文章である。「観客の身体と光は一つに溶け合い、光に宿る聖性が観客の身体を聖別化する。聖なる次元をその実現の場とする共同体に、観客もまた座を占める。映画は、聖なる出来事と聖人の軌跡を描き、観客を聖なる光で包むイコンとなる」(198)。
 以上、タルコフスキーについての第1部の内容を見てきた。このように本書の内容を検討した後であれば、『〈死〉への/からの転回としての映画』という本書の一見謎めいたタイトルの意味は自ずから明らかになるのではないか。上に見てきたように、タルコフスキーの根本思想とは他界とは同時に〈今ここ〉であるというテーゼに要約できるとすれば、死へ向かうことは同時に生へと向き合うことでもある、と言わなくてはならないだろう。死を経て初めて到達し得る生の現場。すなわち、生から死「へ」と向かう「転回」は同時に死「から」生へ向かう「転回」を含んでいる。本書のタイトルは、このような意味合いをもっているのではないか。
 第7章、第8章、第9章は第2部として、タルコフスキー以外の映画監督の作品が扱われる。著者によれば、それらの映画作品はどれも、タルコフスキーの映画作品と同様に二分法的枠組みを越えた世界の根源を露呈するような作品である。
 第7章では、ヴィム・ヴェンダースの『エンド・オブ・バイオレンス』(1997)が取り上げられる。この映画においては、〈見られることなく見る〉ことによって権力を行使するカメラのまなざしが、同時に権力を無化する「天使のまなざし」(204)でもあり得ること―ヴェンダースは透明な天使を写し出した映画監督であった(『ベルリン・天使の詩』[1987])―、そしてこの映画を観るとは観客がその「天使のまなざし」を共有する体験であることが述べられる(212)。第8章では、黒沢清の『回路』(2000)について論じられる。アイデンティティを失ったなにかを現出させるという仕方で恐怖を演出する黒沢清が本質的なホラー映画の作家である(215-216)ことが指摘された上で、このホラー作家黒沢は、この映画を通じて生者の根源的孤独は死者との結び付きの中でしか解決されないこと(「死すべき者たちの共同体」[225])を訴えかけている、と著者は主張する。第9章では、侯孝賢の『好男好女』(1995)が論じられる。『好男好女』は抗日戦線に参加した台湾人についての映画を撮影する人々を描いた映画であるが、この映画にはその「抗日戦線に参加した台湾人についての映画」がいわば「映画中映画」として登場し―その映画のタイトルも『好男好女』である―、その意味でこの映画は入れ子構造をとっている。著者がショットを分析しながら明らかにするのは、『好男好女』という映画が映画中映画としての『好男好女』としだいに識別不可能になってゆく様である。この映画が映画中映画と識別不可能になることで、過去と現在、虚構と現実が識別不可能となってゆき、そのようにしてかつて祖国のために戦った者の愛の「絆」は現在生きている者同士の「絆」となって蘇り、その不滅性が明らかとなる(224)。ときに保守反動的と評される侯孝賢の政治性は、このような「絆」を描いた映画作家という視点から捉え直されるべきである、と著者は締めくくる(同上)。
 さて、以上、本書の内容を紹介してきた。ここからは、本書の特徴と思われる点についていくつか指摘しておきたい。
 著者は、本書を通じて一貫して、タルコフスキー映画が数多くの、異質なテクストから織り成されたテクストであること、すなわちその〈間テクスト性〉に注目している。このようにタルコフスキー映画を異質な諸々のテクストが交差する結節点として捉えているところに、本書の一つの特徴があると思われる。その一例として本書の『サクリファイス』論を取り上げよう。そこでは、この映画で発せられる台詞はもちろんのこと、それに関係しているタルコフスキーの日記の箇所が言及され、さらにはその台詞に「永遠回帰」という言葉が含まれていることからニーチェのテクストが参照される。また、タイトル・バックに使われたレオナルド・ダ・ヴィンチの『マギの礼拝』や、そこでかかっていたJ・S・バッハの『マタイ受難曲』、そしてそれらに関する聖書の箇所へと話題が及んだかと思うと、さらにはタルコフスキー自身が著した原作小説『サクリファイス』に出てくるドストエフスキーの小説『罪と罰』についても論じられることになる(さらに他のテクストもまだ取り上げられているが、それはご自身で確認されたい)。本書では、このように多数の異質なテクスト―文学テクスト、音楽テクスト、絵画テクスト等―が縒り合わされたインターテクストとして、タルコフスキーの映画は捉えられている。このようにタルコフスキー映画をインターテクストとして捉える著者の視点は、たしかにタルコフスキー映画の本質的な一側面を捉えていよう。そして、著者はこのようなタルコフスキー映画をインターテクストとして見る視点に立って、その象徴性を解明しようとしている。しばしば「難解」と言われるタルコフスキー映画。それを数多くの、異質なテクストが響き合うポリフォニーとして深く耳をすますとき、その象徴の秘密が啓示されることを本書は明らかにしてくれる。
 もちろん、それら文学、音楽、絵画などの多種多様なテクストは、映画テクストという一つの場を共有しているのであって、この映画テクストがそれら多種多様なテクストが観客にいかにして与えられるかということを決定している。それゆえ、著者は既に述べたように、方法論として現象学を選びながら、映画体験に忠実に、繊細さをもって映画を「記述」してゆくのである。この意味において、本書はあくまでも映画論である。こうして本書は、映画というメディアの特性を無視した単なる象徴研究に陥ることを免れているのである。映画というメディアに徹底的に固執し、タルコフスキーの象徴性を語り出すというこの姿勢によって、本書はまさしく映画論たり得ている。
 ところで、著者のタルコフスキー映画の解釈の是非を問題とする方もおられるかもしれない。つまり、著者が解釈したタルコフスキーの「根本思想」―〈今ここ〉こそが他界であるというテーゼ―、その解釈の妥当性について疑念をもたれる方がいらっしゃるかもしれない。この点についてどう評価するかは、タルコフスキー研究の専門家ではない評者の能力を超えている。しかしながら、映画の具体を繊細に「記述」する手法によって為される著者の解釈は、映画をある既成の哲学的、宗教的思想へと還元してしまうたぐいの解釈ではない、とは言えるだろう。著者は映画をある一定の思想へと還元してしまうのではなく、映画をそれ自体として尊重しながら、それにいわば〈照応〉する思想を解明しようとするのであって、その意味で著者の試みは一種の解釈の実践である。でなければ、著者は映画体験に忠実に、繊細さをもって映画を記述する必要はなかったはずである。著者は映画の肌理に即しつつ、自らの解釈を実践する。とすれば、ここでもある意味で二分法を越えるということが問題になっているのである。この場合は映画に内在的な思想か、解釈者が映画に投げ入れた思想かという二分法である。本書は、タルコフスキー映画解釈においてその二分法を越え、もはやそれらどちらの思想であるとも言えないような決定不可能な地点にまで至ろうとする試みであった、と言えはしないか。そして、それはある程度達成されたのではないか、と評者には思われる。

 最後に、著者に是非ともお願いしたいことがある。初期作品も含めたタルコフスキーの全作品を対象とした研究に取り組んで欲しい。その来るべき書物を夢見ながら、本書評を終わりとしたい。

●書評 加藤幹郎著『日本映画論 1933−2007 — テクストとコンテクスト — 』(岩波書店、2011年)

田代 真(国士舘大学文学部教授)

 

『日本映画論1933−2007』(岩波書店)は、映像を中心にさまざまなメディア文化を横断して創造的な活動を繰り広げている、本学会会長加藤幹郎氏の新著である。欧米映画を専門領域とすると思われることの多い加藤氏が、全編日本映画を論じた待望の書である。
 私が本書を読んで深く感じたことは、日本映画がかくまで豊饒なものであり、かくまで豊かなものとして見る観方があったのかという驚きである。それはとりもなおさず、映画を見るということが、かくまで多角的にアプローチされることへの驚きにほかならない。
 しかしながら、この書評は、通常の書評としての資格を欠いていることを、まずもって会員諸氏に告白しなければならない。著者の前著の書評を担当させていただいたときにも、同様のことを申し上げたことがあるが、本書については、事情は異なる。書評には、通念として、対象となる書物の紹介と概要、評者の批判・評価が要件とされると思われる。そのうち本書評が提供できるのは、紹介のみにとどまるからである(評価については紹介そのものからおのずとお分かりいただけるものと思う)。その理由そのものが、書評の内容となることをお断りしてなおかつ、拙評を書かせていただいたのは、もとより2段組400ページをこえる本書の持つ豊かさの片鱗すら、この紙面では伝えることなど望むべくもないことは言うまでもないが、実際に読者諸氏が本書を手に取って、その紙面に目を落とそうという気になっていただければというささやかな願いからである。
 さて、「日本映画論」そして、二つの西暦年号が連結記号でつながれた本書の題名を一見された学会員の読者諸氏の多くは、日本映画史のイメージを抱かれるのではないかと思う。副題の「テクストとコンテクスト」も、とくに「コンテクスト」という言葉の含意からして、やはり、映画作品や映画文化を、社会史や文化史の観点から論じたものと推測されるかもしれない。しかしながら、本書を開くや、そのような臆断は、完全に打ち砕かれることになるだろう。もし、読者諸氏が、盛名高い著者の、日本映画についての映画史的な概観や、それぞれの時期を代表する名作紹介解説を期待するならば、その期待は、良い意味でまったく裏切られることになろう。というのは、本書は、我々読者が本書のような題名を見たときに抱くこのような期待こそが映画のどれほど豊かな富を見えなくしてしまうものか、そしてその富を奪い返すにはどうすればよいかを教えてくれるからである。
 本書は、1933年から75年にわたる日本映画から年代順に、一監督一本に絞った(加藤氏がセグメントと呼ぶ)断章で構成されている。そのなかで150本以上の映画取り上げられ、縦横に論じられる。では、これは編年体で、その年の代表作の映画史的意義を解説してくれるのか。加藤氏の狙いは別のところにある。
 我々が映画を観るにあたっての豊かさを取り戻すにあたって必要なものとは何か。本書の副題に含まれる「テクスト」という言葉こそ、その鍵に他ならない。映画をテクストとして見ることとは、その映像と音響を見て聴くという我々の映画体験に立ち戻ることであり、その具体的な表情を回復することである、と著者はいう。しかし、そのことの困難をもたらすのがその体験をめぐる「コンテクスト」である。我々に映画を楽しんだ気にさせるもの、わかった気にさせるもの、見た気にさせるものが、実は、映画テクストの具体性を覆い隠しているのではないか。映画は所詮娯楽と割り切り、こちたき議論を野暮とみなす消費者の、無意識意識を問わない一般的性向も、前述の、日本映画史の「概観」だとか、客観的あるいは論者の独自性を標榜する分析も解説も、映画を大衆文化のイデオロギー性批判の手段化する批評も、気が付かないうちに映画経験の富を奪うことに加担しているのではないか。
 そもそも映画経験とは、フィルムといった物質的存在にも、映画が語る物語内容やジャンルにも、引用や映画史的記憶にも、映画を支えてきた技術や映画技法にも、消費物として社会学的対象として扱うやり方にも還元されえない、概念化、一般化できない特異なものであるはずだ、と著者は今までの数多くの著作を通じて繰り返し述べてきた。しかしながら、その特異な経験は、それ自体で観念的に記述されうるものではない。こうした概念化、一般化するコンテクストのいずれともかかわりつつ、そのいずれにも還元されることに抵抗することを通じてしか、顕わにはならないのである。
 それはとりもなおさず、映画というテクストを読むことを通じて、今までそのように映画を観るように方向づけてきたイデオロギー=コンテクスト自体を解読することにほかならない。コンテクスト(脈絡)とは、語義的にはテクストを共通化するものであり、いわば共通因数であるといってよいだろう。それ故に、特異であるべき経験が画一化されていく誘惑と危険性は極めて高い。テクストを読むにあたって我々が使う説明の枠組みそのものが問われることになるわけだが、著者が「普遍主義的」と呼ぶ一般化の高い概念化の枠組みほど一貫性が強く、それだけ説明の説得力が高まるわけであるから。
 こうしたアポリアに対する加藤氏のアプローチは、困難ではあるが、極めて周到である。その映画テクストを読むことがそれが生成したコンテクストを読むことにつながるような、「その年代の突出した特異性を示したテクスト」を選び、それをさまざまなコンテクストの交錯の特異な網目として読み解きながら、一般化の根拠としてその映画テクストを特権化することなく、コンテクストの枠組みの共通化の自明性を揺るがし、断ち切り、他のコンテクストと接続することで変容させる。本書で「セグメント」なる手法が用いられる所為である。
 セグメントとは、語義的には「切断されたもの」を意味する。本書の複数のセグメントを、配列順(つまりは年代順に)に、あるいはランダムに読んでみると、ある年の1本の映画テクストをめぐるセグメントが、本書内外のいくつかの他の映画テクストのセグメント(つまり部分)やコンテクストのセグメントの特異な交錯点、網目=テクストに他ならないことが明らかになってくる。こうした本書のテクスト的な組成は、決して同一ではなく異なってはいるが類似したテクストやコンテクストが、ポリリズムの音楽のように多様なリズムで再帰しながら、まったく新しい意味を織りなして立ち現われてくる、という稀有の読書体験をもたらす。著者自身の「本書の理想的な読みは螺旋状の読書である」という言葉は、まさしくそうした体験のことを意味するのだろう。
 著者の狙いは、本書のこのような書法を通じて読者が、再読という読む行為の変容を体験するのと同様の、無限の再読への促し、著者の言葉によれば、「再分節」への促し、すなわち読者自身が新たにテクストを生産することへの促しこそ、本書の主題たる、特異な映画体験の核心に他ならないことを明らかにすることである。ほとんどの歴史書は、現実の時間の流れを差し置いて、それにケリ(終末にして目的たるジ・エンド)をつける。これに対して、本書における歴史を貫く時間観ともいうべきものは、「そのつど再開する再読」の時間、終結なき時間であり、未来の来たるべき映画テクストに開かれた映画史の書法の時間性であるともいえよう。
 本書のタイトルから叙述の方法にいたるまで、そのかたちがおのずと語るこのような企てを考えるなら、通念としての書評に要請される要約なるものが本書においては、原理的に不可能であるだけでなく、無意味であるばかりか、各読者諸氏が、本書そのものを「螺旋的に」読書する体験を阻害するという意味で有害であることは、よくお分かりになったことと思う。
 では、本書は、書評のもう一つの要件である、批判を封じ込める狡猾なテクストなのだろうか。著者によれば映画テクストの「再読」とは、そのテクスチュアに従いながらも、その「映画テクストを逆なでる行為」だという。むしろ、読者に求められているのは、本書にそいつつ、それに「抗する」ことであるといっても過言ではない。もちろん、それは、本書を読まずに何かを語ろうとする愚を犯そうするならいざ知らず、既成のイデオロギーによって歪曲することではありえない。
 著者は、「再読」がもたらす「オルターナティヴな思索と観察の足場」は、「細部が一般法則となり、例外が規則となりうるような瞬間をとらえる」ことを可能にするという。批判とは、既成のコンテクストでテクストを論断したり、もっぱらテクストを正典化して恭順を示すことではないのだ。この意味で本書は、読者を批判的な「再読」にいざなう、挑発的なテクストなのである。
 欧米とくにハリウッド映画について深い知見を持つことで知られる加藤氏の日本映画論が、日本映画の特質を、知悉するハリウッド映画の規範的文法からの偏差として析出していくのではないかという臆断も、やはり期待外れに終わることになる。たとえば、溝口健二の『残菊物語』を取り上げた本書で最も長いセグメント「視線の集中砲火」では、全セグメント中最も徹底したテクスト分析が展開されており、本書の中でも重要な位置を占める断章である。とりわけ著者は、この作品において女主人公の顔を欠落させるための「切り返し」が組織的に回避されていること、そしてそれにとって代わる超絶的なロング・テイクが用いられていることの意味を、主人公の舞台復帰のクライマックスにおける「切り返し」の集中的な使用やエンディングの切りかえしの不在の構造と密接に関連付けながら、精緻極まる分析によって明らかにする。
 たしかに、グリフィスからヒッチコックの『レベッカ』にいたる、ハリウッド映画の規範的文法の核心ともいえる「切り返し」の機能と歴史が参照されるが、それは、溝口のこのテクストの特異性を浮き彫りにするいくつかのコンテクストのひとつにすぎない。それが参照されるのは、このテクスト自体が、「技法と主題、形式と内容のダイナミックな相互陥入」において「固有にして突出した」ものであり、その特異なテクスチュアリティが我々に新たな再読を要請するからである。こうしてコンテクストは、逆に再読を通じて持続的に変容し続けるのである。
 このように、本書の書物としての書き方の面白さを楽しむこと、本書が再読する映画テクストを本書に即してあるいは本書に抗して再読することは、本書の描き出す日本映画の豊饒さを再読することと直結している。物語としての日本映画史であることを峻拒し、一見均質な編年体という叙述形式をとりながら、読者の目にさらされるや、その読者固有の不均質な唯一無二の時間を生起させるテクスト。それが、日本映画の豊かさの発見の時間なのだ。

●書評 塚田幸光編著(加藤幹郎監修)『映画の身体論(「映画学叢書第2巻」)』(ミネルヴァ書房、2011年)

植田真由(京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程1年)

 

 映画は、運動性を内包することのできるミディアムとしてこの世に誕生した。その特性を活かすため、列車は同時代を代表する最速最大の運動媒体として数多くの作品に収められ、また強靱な肉体をもつユージン・サンドゥの身体は多くの観客を魅了した。そのことから明らかなように、映画は動くもの、つまり列車に代表される乗り物や人間の身体を好んで被写体としてきた。そして、加藤幹郎が指摘するように、映画は時を経ずしてモーション(運動)とエモーション(情動)を描くようになり、双方の交錯を描写するようになるのだ。映画と長い蜜月を過ごした列車は今や最速最大の運動体ではなくなったが、人間の身体はいまだ動く被写体としての魅力を失っておらず、日々更新される映画史において、映画の身体論は幾重にも折り重なり、映画研究者の心を惹いてやまない。本書は、そのような映画の身体論を様々な見地から検討したものである。以下に各章の内容をみていこう。
 堀潤之「運動家ゴダール」(第1章)は、ゴダール作品に散見される様々なスポーツを通して、ゴダール研究に新たな視座をもたらしていると言えよう。ゴダールはなにもスポーツを主題にした作品を撮ったわけではない。しかし、彼の作品の多くは確かに、スポーツをなんらかの形で盛り込んでいる。本章は主に、ゴダールの60年代から80年代までの作品におけるスポーツの表象が、登場人物の身体を通して鮮やかな運動性から不動性へと変遷していく過程を追っている。その際、この運動性が映画史とゆるやかに関係しているとの指摘も見逃せない事実である。また、ゴダールがテレビ出演の際に、自らの身体を効果的に利用することでテレビというメディアを批判していることは注目すべき点であろう。
 山本秀行「《ポストコロニアル》ブルース・リー」(第2章)ではまず、カンフー映画の第一人者として今なお名を馳せているブルース・リーの身体を、その出自から丁寧に解きほぐし、帝国主義や資本主義に基づく西洋中心のヘゲモニーに対するポストコロニアルなブルース・リーを浮かび上がらせている。そして、この視点をもとに、香港で制作された『ドラゴン危機一髪』、『ドラゴン怒りの鉄拳』、『ドラゴンへの道』や、香港・アメリカ合作の『燃えよドラゴン』を対象とし、リーの身体・マスキュリニティの表象の分析が行われている。山本は、リー作品において主人公であるリーに付与された周縁的マスキュリニティ、抑圧的な西洋社会(あるいは日本)を反映した覇権的マスキュリニティ、そしてその二つが入り交じることで二項対立が崩壊していることを指摘している。
 川本徹「カウボーイと石鹸の香り」(第3章)では、これまであまり語られることのなかった男性の入浴シーンに光が当てられている。まず、西部劇に見られるカウボーイたちの入浴シーンに触れられ、彼らが入浴の際に何か(銃や葉巻、帽子など)を身につけることによって入浴という女性的行為のなかにも男性性を保っているという約束事を西部劇のみならず、コメディやフィルム・ノワールなど様々なジャンルをも横断しながらあぶり出している。次に、ヘイズ・コードの失墜によって増すこととなった男性身体の露出に目が向けられ、男性への欲望のまなざしとそこに見え隠れする同性愛、さらに、同性愛的場として機能しているサウナについても論究されている。最後には、半世紀にわたるキャリアを持つ映画スターであり監督でもあるクリント・イーストウッドの身体を、『マンハッタン無宿』から『グラン・トリノ』に至るまでを対象にその変遷を網羅しており、カウボーイだけにとどまらない新たな男性身体論を構築している。
 名嘉山リサ「ブラックスプロイテーション映画のアクション・ヒロイン」(第4章)は、エクスプロイテーション映画のなかでもさらに黒人女性をヒロインに据えた『フォクシー・ブラウン』と『ダイナマイト諜報機関—クレオパトラ危機突破』の二作を対象とした稀少な論考である。黒人女性ヒロインであるパム・グリアとタマラ・ドブソンは、白人男性が描くステレオタイプな女性像から完全には解放されないながらも、新たなアクション・ヒロイン像を提供している。グリアの作品では、女性は胸が強調されるなど性的に表現され、ドブソンの作品も同様に、ストーリーと関係なくファッションを際立たせた作品になってはいるものの、彼女たちは見られていることを自覚しており、女性性をあえて武器としていることが二作のアクション・シーンの詳細な作品分析によって指摘されている。軽視されがちなエクスプロイテーション映画における黒人女性の身体に対するポジティブな女性像の提示は、我々に新たな視点をもたらしてくれる。
 吉村いづみ「白い身体、黒い肉体」(第5章)では、『青い山脈』と『キクとイサム』における登場人物たちの身体と、そこから抽出されるナショナル・アイデンティティの関係について論じられている。原節子の身体に投影される民主主義や男女同権などの新体制と戦前の旧体制を対照的に扱っている『青い山脈』は、物語構造と相まって日本人のナショナル・アイデンティティ構築に一役買っていることが示されている。また、混血児問題を描いた『キクとイサム』は、戦後日本の白人と黒人に対するイメージの差異や黒人の女の子への偏見を、キクを演じた高橋恵美子の黒くて大きな身体に光を当て、政治的・社会的文脈においてアメリカによる占領がいかに日本人に根ざしていたかを照射している。俳優の身体が、国民感情を代弁する可能性をも含んでいることを示した証例であろう。
 小川順子「命短し芸は長し」(第6章)は、時代劇俳優市川雷蔵の身体に着目したものである。まずは若くして死を迎えた雷蔵の生涯を丹念に紐解き、死後、雷蔵に纏わり付いた悲劇性の一端をつきとめている。そして、儚さを感じずにはいられない雷蔵の細い身体は、絶妙な編集によって観客にある効果をもたらす。まず、雷蔵の身体をロング・ショットやミディアム・ショット、クロースアップなど様々なサイズに切り取りうまく組み合わせることで、また袴姿や股引などの衣装のコーディネートによって、未熟な役から成長していく姿を演出することに成功する。また、雷蔵の身体のセクシュアリティや存在の希薄さによって、観客は雷蔵の身体に自身の欲望を投影することができる。そうすることで雷蔵は、あらゆる観客にあらゆる身体の解釈を提供しているのだ。
 松田英男「アメリカ戦中ミュージカル映画の系譜」では、戦中のアメリカで量産され強いプロパガンダ性により軽んじられてきたミュージカル映画の見直しを図っている。ミュージカル映画が兵士たちの行進に見られる直線運動によって戦争の残酷な短絡性を示し、兵士たちと恋愛をすることで戦争を支えた女性をそのプロパガンダ性に絡め松田は指摘している。また、進軍とは一線を画す身体性を持つフレッド・アステアとジーン・ケリーについての考察も見落とせない。映画史に名を残す両者の見事なダンスは戦中から戦後にかけて変化を見せる。戦意昂揚にそぐわなかったアステアとそれに適合したケリー。しかしながら戦後、彼らの身体がより自由にミュージカル映画を駆けまわるようになったのは、戦争協力という政治的背景からの解放によるものが大きい。本章での戦中ミュージカル映画におけるナンバーや俳優の身体の緻密な分析によって、これまで看過されてきたジャンルの再評価がなされることは言うまでもないだろう。
 塚田幸光「メイル・ボディの誘惑」(第8章)では、なぜハリウッドはヘイズ・コード廃棄後に男性の身体を露出し始めたのかという疑問を出発点に、ニューシネマを分析することでその答えを導き出している。ここではまず、ヘイズ・コードの政治的意味の再解釈が行われ、『欲望という名の電車』におけるマーロン・ブラントの身体に目が向けられている。様々な性のタブーが織り込まれながらも、ブラントの身体から醸し出されるホモセクシャルな雰囲気がコードの網を逃れている奇妙なシーンを我々に突きつけた後、本章はニューシネマへと向かう。『俺たちに明日はない』(1967)や『卒業』(1967)、そして『泳ぐひと』(1968)などのニューシネマにおける男性たちのマスキュリニティの剥奪はベッドやプールで行われ、男性の身体はスペクタクルと化す。そして『真夜中のカーボーイ』において、男性の身体はベッドの上で女性に消費され、これまでの女性的ポジションを歪曲的に引き受けることとなる。その結果、ニューシネマの男性身体に向けられる視線のポリティクスは複雑に交差し、性とジェンダーを曖昧にするというこれまでにないニューシネマ解釈が本章ではされている。
 以上のように、日本映画、アメリカ映画やジャンルを問わず様々な作品にスポットが当てられ、多様な角度から映画における身体が紐解かれている。映画における身体論は、日本でこれまで十分に論じられてきたとは言い難い。確かに、いくつかの映画の身体論にまつわる書籍は出版されているが、本書のようによりテクストに肉迫した展開になっているものは珍しいと言えよう。また、本書では性やジェンダー、政治的・国家的イデオロギーや俳優のペルソナなど、身体が内包する多くの問題が扱われている。そしてこれらの問題は身体のみならず、あらゆる映画研究に通ずる普遍のテーマでもある。その意味で、昨今隆盛を見せる映画研究において、本書が果たす役割は大きいだろう。

●新入会員紹介

  • 木村美紀(玉川大学大学院修士課程)映像メディア・リテラシー
  • 桑子利男(早稲田大学教育学部教授)英文学
  • 槌橋雅博(神戸芸術工科大学デザイン教育研究センター准教授)映画監督
  • 濱田尚孝(日本映画大学図書館担当)
  • 山中祐子(広島大学非常勤 講師)アメリカ文学